Thursday, March 28
Shadow

5576-A01

 

5576-A01

P/N : 79F0167
Made in Japan

記念すべき日本語配列の原型機にして,日本的座屈ばね機構の名品。日本,いや世界鍵盤史上の最高傑作です。本機は一時期IBMのPCに添付されて多く出回っていました。1991年5月に発表されたPS/55Z モデル5510Zに添付されて世に出たのが最初と思われます。DOS 4.05/VすなわちDOS/Vが発表されたのがその前年の10月,1990年の年末には後述のPCオープン・アーキテクチャ推進協議会(OADG)が発足しました。そうして日本語鍵盤の正統として現れたのが本機です。

5576系の他の機種と異なり,「A01」という表記は一切ありません。P/N(product number=製品番号)79F0167というのがA01を意味する番号です。入手の際はご注意ください。ロゴは下の写真のように小さくすっきりとしています。まるでかつてのアメリカ車のような冗長な大きさを感じさせるenhanced 101系統のロゴと対照的です。むしろ現代のSpace Saver Keyboard IIの青いシンプルなロゴと共通するものがあります。enhanced 101の冗長なロゴを1980年代半ばの象徴とするなら,本機のすっきりしたロゴはダウンサイジングの進んだ1990年代の象徴と言えるかもしれません。

5576-002のところで書いた通り,このロゴの長円はIBMという文字を入れるにはやや大きすぎるように思います。筐体の製造元は,あらかじめ他のブランドでも販売することを予期していたのだと思われます。実際,本機についてはIBM銘以外に,RICHOおよびOMRON銘の存在が確認されています。坂口卓英氏提供によるRICHOブランド品の写真を下に示します(ご提供に感謝いたします)。OMRONブランドのA01については,阿部氏のサイトに紹介がありますのでご参照ください。これらの亜種とIBMブランド品の間に,ロゴ以外の具体的な相違があるという事実は知られていません。一般にA01型のキータッチは,経年変化も含めて個体差が大きいと言われており,坂口氏によれば,下記写真のRICHO版は氏保有のIBM版に比べてやや押し下げ圧が軽いとのことです。

RiCHOロゴの近接写真(坂口卓英氏の好意による)。
RiCHOロゴの近接写真1(坂口卓英氏の好意による)。
RiCHOロゴの近接写真(坂口卓英氏の好意による)。
RiCHOロゴの近接写真2(坂口卓英氏の好意による)。

手にとると高級感あふれる質感で,まず筐体のプラスチックの成型精度が,明らかに1391401よりも高いことがわかります。上下のガワの境目がぐらぐらしません。鍵盤趣味な人は一度A01を分解掃除してみるといいです。ガワをはめる時,パチン!と音がしてうれしくなります。

ケーブルは着脱式,キートップも簡単に外せて掃除が楽です。キートップの形状は002鍵盤と共通ですが,英語鍵盤とは異なります。基板の色は黒で,大型キーには下の写真のように安定用の針金がついています。PC/AT鍵盤以来IBMの英語鍵盤にしばらく見られたものですが,本機の金具の方がつくりが明らかに凝っていることが看て取れます。

RiCHOブランドのA01鍵盤正面図(坂口卓英氏の好意による)
RiCHOブランドのA01鍵盤正面図(坂口卓英氏の好意による)

キースイッチの構造は5576-003と完全に同じブラザー・スイッチで,キーが個々に独立した座屈ばね機構の下に薄膜接点があります。構造の詳細はK.Tanaka//氏のページを参照してください。私はこれを書くにあたり,日米のサイトを無数に渉猟しましたが,氏のページは間違いなく世界最高の部類に入ります。それにしても,アクチュエータが個々に分離しているというのは非常にすばらしい構造です。例えば,ひとつのキーがへたったら,そこを新しいものと取り替えればいいからです。あるいはファンクションキーのように使用頻度が低いものと交換するという手もあります。キートップは外せますから,刻印の違いは問題ではないわけです。

前史2でも言及しましたが,現在の日本語106鍵盤の配列はこのA01を元にしています。英語鍵盤の標準配列機となったのはIBM1391401に代表される101配列でしたが,日本ではこの5576-A01です。1980年代に日本国内のPC市場で一人勝ちであったNECの牙城を崩すべく,IBMや日立といった会社が何度となく挑戦を仕掛けました。結局は,安価な世界標準機を,単にソフトの入れ替えのみで日本語化できるDOS/Vの成功によって,戦いの趨勢は決します。

日本語化をめぐる争いは,デファクトスタンダード(事実上の標準)の座を巡っての争いでした。DOS/V側の標準化団体をOADG(Open Architecture Development Group)といいます。結局,5576-A01の配列を標準として決めたのがこの団体です。「々」「£」「¢」などWindows環境で入力できない文字が残っているのが,IBMのEBCDICという文字コードの名残であることはすでに言及しました。OADG標準配列鍵盤の仕様書がOADGのサイトで読めますので興味のある方はご覧下さい。

OADGはその後,3つの「追加キー」の場所を確保し,また「々」などの文字を削除したOADG109A規格を策定しました。正しくそれに準拠したキーボードも最近は増えています。しかしいまだに古い刻印を持つキーボードが出回っているのは実に不思議です。IBMの最近のキーボード,例えばSpace Saver Keyboard IIにも古い刻印が残っています。今となっては,ほとんど惰性でやっているとしか思えないので,このような見苦しい記号は直ちに削除していただきたいものです。

DOS/Vの首班設計者であった羽鳥正彦さんが,A01について貴重な証言をしてくれています。

開発者からみて、世の中にあまり知られていないと思うDOS/Vの側面がある。
ひとつはDOS/Vのスケーラビリティだ。・・・(中略)・・・
もう一つは106キーボードのレイアウトである。日本IBMはこの互換キーボードを作ることを容認したが、このキーボードは実はノウハウの塊なのである。このキーボードは基本設計の水場英世が設計したものであるが、バラバラだった日本のキーボードをある程度統一した功績は無視できないだろう。
(羽鳥正彦、DOS/V博物館、http://www.tk.airnet.ne.jp/wingbird/lab/dosv.html、2004年1月現在リンク切れ)

そしてこれに続いて,

ただし、WORD MASTERとVIで育った筆者から見ても、Ctrlの位置は許し難いものであるが……。

と付け加えているのが面白いです。しかし1980年代半ばに確立したenhanced 101鍵盤の配列でもCtrlはAの隣には存在せず,これに反した配列を選択するのは,世界標準機で日本語を,というDOS/Vの精神に反するものでした。互換性を保つという点では仕方ない選択であったと思います。

あまり知られていませんが,101配列が確立する1985年頃以前は,CtrlをAの隣に配した鍵盤をIBMは出していました。それをわざわざ変更したのは,emacs使いよりも,普通に英語を打つ人(したがってCtrlよりもCapsLockを多用する人)の勢力が上回っていたことを意味します。ちなみに私は,手のひらで左Ctrlを押す癖がすでに確立していて,指の自由が利くという点でこっちの方が合理的かもしれないと思っています。

なお,配列が「標準」であるため当然ですが,Windows2000やMeなどにおいても,標準ドライバでまったく問題なく駆動できます。将来のXPにおいても,その次期OSにおいても問題なく使いつづけることができるでしょう。このような文化遺産を使いつづけられるのは,本当に幸せなことです。

古いPCユーザーの中には,キーをカチカチ触ってみて「ああこんなのあったな」と思う人も多いようです。新物好きの日本人のこと,その価値に気付かずあっさり新PCの(実は粗悪な)鍵盤に移行してしまい,今になって地団太踏んでいる人も多いことでしょう。今中古品を求めようとすると,とてつもなく高価です。

打鍵感を形容する言葉はそれこそ尽きません。大理石をパチンコ玉で叩くような感じといったらいいのでしょうか,打ち込んだときの硬質な反跳が指に心地いいです。極めて剛性の高い筐体から,カチカチと折り目正しい音がします。1391401で耳につく,座屈ばねの不協和音的な残響が十分抑制されています。仮に,よく訓練されたタイピストが本機で文章を入力していたら,われわれはその音を決して不快とは感じないでしょう。あえて欠点を挙げるとすれば,キーがやや重いことでしょうか。しかしそれも,丁寧に使い込むといい具合にばねが緩んできて,優しさが醸し出されてきます。私はこれからも時折A01と003のタッチに触れ,それを楽しむことと思います。私の知る限りで,世界最高の完成度を持つ鍵盤が,この5576-A01です。

2001年8月現在,新品入手はほぼ不可能です。新品がオークションに出たら,5万円とかの恐ろしい値段がつくと思います。中古品は15000円前後で安定しています。日本IBMには,A01のSpace Saver型の復刻版を出してもらうことを強く望みます。トラックポイントまでついてたら言うことはないのですが…。