Friday, March 29
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IBM5576鍵盤の悲劇 A brief histry of IBM 5576 series

一世を風靡したIBMの座屈ばね式鍵盤が市場から駆逐された過程を前史1で見た。いまだに多くのゴム椀式キーボードはモソモソした手触りの粗悪品である。筆者が2000年に購入した某BTOメーカー製PCに付属していたキーボードもひどいものであった。もっとも最近は,業者によってはずいぶん研究が進み*,IBMのプリファード(写真)やPFUなど比較的良心的な製品もある。しかし全般的に1990年代末は,鍵盤の低品質化が急速に進んだ時期であると言ってよい。

*以前は真っ先にコスト削減の対象となっていたPC付属のキーボードであったが、最近(2003年後半)になってずいぶん様子が変わった。たとえば、話題の東プレ製鍵盤をオプションに揃える意欲的なBTOメーカーも出てきた(エプソンダイレクトなど)。選択の幅が広がったのはとてもよいことだ。

IBM Preferred keyboard
IBM Preferred keyboard

実際の価格から低コスト化傾向を見てみよう。1994年6月の日本IBMの資料には,PS/55の鍵盤として

5576-001:38,000円
5576-002:33,000円
5576-003:27,000円
5576-A01:22,000円
5576-C01:33,000円

という価格表が掲載されている。その後,在庫整理のためか,2000年4月の段階で,003型は15000円に値下げされたものの,上記プリファードや「ラピッドアクセスIII」が現在6100円であることを考えると,驚くべき高価格である。90年代前半は,PCの価格が劇的に下がった時期である。アメリカでは80年代終わりと比べて,1993年までには,パソコンの値段は5分の1程度に低下したと言われている*。日本語の障壁が世界標準機の流入を妨げたため,日本での変化はそれから数年遅れた。1990年代中盤を経て,パソコン市場は価格主導型市場(price-driven market)に成熟を終えた。それに対応して鍵盤の品質も目に見えて低下していったわけである。
*『IBMの選択』,宮本倫好,日本工業新聞社,1994,第7章。

上に挙げた5576系鍵盤の初期型の5機種は,生産が終わった現在でも,オークション等で日本語鍵盤の名機として高値で取引されている。実際に筆者の手元にある数台を,パソコン付属品の安物キーボードと比べてみても質感の違いは明らかである。さんざんオフィスで酷使されたであろうに,手脂による変質,蛍光灯による焼け,ばねのへたりはほとんど見られない。1983年に日本IBMから発表されたマルチステーション5550の写真を以下に示す。初期型では日本語フォントをディスクから読み込ませることも可能であったらしい(米野氏の年表参照)。パフォーマンス的には実用に耐えるものではなかったようだが、DOS/Vの萌芽と言えなくもない。この目で見ると,CMで渥美清に言わせた「友よ。機は、熟した。」という宣伝文句はなかなか意味深である。付属されている鍵盤は,独特の「角ロゴ」であること,LEDの代わりにペン置きがつけられていること,などの些細な相違を除き,後にPS/2端子を伴って発売されることになる5576-001と極めてよく類似している。5576系鍵盤のルーツと言ってよいだろう。

IBM Japan "Multistation 5550", cited from IBM Computer Museum.
IBM Japan “Multistation 5550”, cited from IBM Computer Museum.

DOS/Vの最終的な成功を見るまで,とりわけ日本語化をめぐり,日本IBMは米国IBMとは一見矛盾して見える行動をしばしば取った。そのためか鍵盤においても多彩な足跡を残している。上記5576鍵盤5つは,実に3種類のばね機構に分類される。米国で発売されたIBM PCが,1990年代半ばまで一貫して座屈ばね機構の鍵盤を作っていたのとは対照的である。米国では,IBM PC系(IBM PCとPC/XT,PC/AT初期型)と,enhanced 101系(IBM,Lexmark,Maxi Switch,Unicomp)という2種類の座屈ばね機構が存在するものの,後者の方が圧倒的に多く生産されたために,IBM buckling spring式といえば,ほぼ一意的に後者のことである。しかし日本では状況がかなり異なる。

001および002は,日本のアルプス電気が基本特許を持つ板ばね機械接点を採用している。キータッチの繊細さから言っても疑いなく名機と言える。一方,003A01は座屈ばね機構であるが,スイッチ機構が丸ごと個々に取り出せるようになっていて,enhanced 101とは構造的に異なる。これは日本のブラザー工業の製造である。A01から日本製と明記されるが,それ以前のものにはなぜか製造国の記述がない。これもIBMの製品としては異例である。トラックポイントIIが付属のC01も座屈ばね機構であるが,キートップが外せない上,打鍵感が003とはまったく異なっている。これはMade in USAとなっている。

The Alps mechanical switch, cited from US patent, US3899648.
The Alps mechanical switch, cited from US patent, US3899648.

さらに興味深いのは,キー配列の変遷である。今われわれが使っている日本語106鍵盤の配列は実はA01を元にしている。日本IBMの提案したDOS/Vの成功によって,OADG(Open Architecture Development Group)という,実はIBM主導でつくられた団体が,5576-A01の配列を標準としてそのまま採用したためである。IBMのEBCDICという文字コードの名残で,今もなお「々」「£」「¢」などWindows環境で入力できない文字が残っているのは,当時の状況を示していて興味深い(DOS/V Power Report,1999年6月号,インプレス)*。DOS/Vの首班設計者であった羽鳥正彦の回想によれば,A01鍵盤を設計したのは,水場英世である。

*OADG109A規格ではこれらの文字は削除されている。

それ以前の5576系鍵盤はこのA01標準配列とは異なっている。先に掲げた写真に001型鍵盤の特殊な配列が見える。まず,ファンクションキーが24個と多い。また,IBM PCの鍵盤の名残であろうか,左端に2列縦にキーが並んでいる。現代の鍵盤の右Ctrlにあたる位置には「実行」と書かれたキーがある。余談だが,筆者の勤める会社では,IBMのAS/400というサーバーをSNA3270というプロトコルを介してPC上で使い,出張費申請などの事務処理をするようになっていた。命令を入力するたびに,右Ctrlを押さないといけないのが当初謎であったが,この鍵盤を見てなるほどと思った次第である。右Ctrlでエミュレートする歴史的理由があったということだ。

明らかにホスト端末としての名残を残す001型に対し,002およびその10キー省略型の003の配列は,A01とよく似ている。ただ,左ALTが別のキーになっていること,右ALTが「前面キー」になっていることが異なる。それに対応してドライバも異なり,Windows2000,Meでは標準では使用できなくなった。

上記5機種の製造を終えた後,日本IBMは5576-B01という製品を出す。Aptivaに付属され大量に出回ったマレーシア製のキーボードである。中身は丸ごとミツミが作ったようである(じゅんけ氏の研究による)。もちろんA01配列であったが,そこに昔日の5576系の面影はもはやなかった。筆者の手元にも一台あるが,キートップの摩滅,黄変,ゴム椀ばねのへたり,などなど,その経年劣化の速度は上記5種の5576系にくらべほとんど無限に大きく,あのIBMがと思うと情けない。残念ながら近年の粗悪品キーボードの代表例である。こういうものには筆者はあえて鍵盤という言葉を用いない。

歴史を強引に短絡させるような言い方をすれば,マルチステーション5550とともにDOS/V機の正統として立ち現れた5576系鍵盤は,002型において板ばね機械接点式のひとつの完成形を示し,座屈ばね式のA01において日本語標準配列機としての永遠の名声を手に入れた。座屈ばね機構とTrackPointを両立させたC01は,鍵盤の機能的進化の方向として,明るい未来が待っているであろうことをわれわれに期待させてくれた。しかしわれわれは,B01において,世の中がそんなに甘くはないことを知ったわけである。IBM5576鍵盤は,日本語配列の確立過程と,PCの大衆化に伴う品質劣化が交差するところで,凝縮された歴史を語っているのである。

(2001年8月)