座屈ばね機構の基本特許
タイプライターという機械に対する欧米人の思い入れは,日本人であるわれわれの想像をはるかに越えたものがある。1970年代,米国での鍵盤の構造改良の問題意識のひとつは,タイプライターといかに似た手触りを実現するか,というところにあった。1973年にテキサス・インスツルメンツ社が提出した特許から引用してみよう(下線は引用者)。
It has been a practice for many years … to provide keys similar to typewriter keys which have significant travel during actuation of the switch and even overtravel after actuation. …This feature has long since become a required characteristic of such keyboards since operators have become accustomed to it.
(“KEYBOARD PUSHBUTTON SWITCH”, US Patent, 3,842,229 )
要するに,使い手がタイプライターに慣れ親しんできているので,それに似た打鍵感を実現するのが重要な問題なのだ,という内容である。押し込み量と「押し抜き感」(overtravel)が重要な要素として挙げられている。鍵盤がらみの特許ではしばしばこのような表現が出てくる。日本人であるわれわれがIBM鍵盤を語るときはこの点に留意することが必要である。タイプライターは相当深い押し込み量を持ち,しかもうるさい。日本IBMが1980年代に出した5576系鍵盤はいずれも米国の標準機enhanced 101とは似ていない。下に触れるようにそれは、日本語という高い障壁のゆえであったが、もうひとつ、打鍵感の好みという因子も見逃せない。実際、5576-C01は、スイッチ構造自体はenhanced 101と同じ座屈ばね式なのだが、ばねは別物で、柔らかいものが使われている。タイプライターを基準として鍵盤を語れるかどうかの差は、それほど小さいものではないと思う。
上に引用した特許で提案されているのは以下のようなプランジャー式の機械接点機構である。20と18がアヒルのような形をした金具でつながれたら導通する。なかなか凝ったつくりであるが,導通のためには底までキーを押し込むことが必要であり,打鍵感がよいとは思えない。ただ,後のアルプス・スイッチのように板ばねとつるまきばねの共同作業でスイッチング動作をする点と,つるまきばねが弓なる自由度があるという点で注目に値する。
その翌年,1974年には,Oak Industriesという会社から下図のような機構が提案されている。書き出しには,「電気接点の間の導通経路の一部としてぐにゃっと曲がった(buckled)つるまきばねを利用したスイッチ」云々,とある。これは座屈ばねをスイッチ機構に取り入れた最初のものと思われる。図のようにばねは軸を中心にした旋回運動(pivotal movement)をする。図をよく見ると,この座屈ばね以外にもうひとつばねがあり,それが基本的にキーの動きを律していることがわかる。
スイッチのON-OFFが操作者に実感できるようにするという目的意識の下,“Buckled spring switch with latching pushbutton”と題された特許が,さらにその翌年に,やはりOak社から提出されている(US 3,979,571)。「ラッチ」というのは,カチッとはまる留め金を指す言葉である。ばねの動作はほとんど同じで,ばねを入れる筒の形状についての改良である。
これらを踏まえて1977年8月30日にIBMのRichard Hunter Harris氏により提出されたのが,“Buckling spring torsional snap actuator”と題された特許である(US 4,118,611)。図を以下に再掲する。上の図と比較すると構造上の単純さは一目瞭然である。単一のばねが,押し込み時の反発感とクリック感の二つの機能を担っている。上の特許では,ばねの座屈はむしろ電気的接触に使われていたが,こちらではクリック感を演出するのに使われている。つまり,ばねがへこっと折れ曲がる時に,指先は「スイッチが入ったな」と感じることができるのである。これにより,本稿の冒頭で引用した「押し抜け感」とでも言うべきタイプライターの動作をよく模擬することができる。さらに,この機構では,電気接点部分は,ばね機構と構造上分離している。この段階ではまだ機械式接点に分類されるが,後の薄膜接点式への応用も容易に推測できる。素人目にもこれは画期的な構造である。米国特許番号4118611。これこそまさに,IBMの座屈ばね機構の基本特許である。
さらにこの特許がすばらしいのは,そのクリック感の由来を,力学的に議論していることである。これも下に引用しよう。初期位置1Aからキーを押し込んでゆくと,1Cでばねの座屈のためカクッと力が減る。そこで電気的に導通する。1Dの行程は,「押し抜き感」を演出する部分である。底まで行ってから静かに手を離すと,滑らかな手触りを持ちつつ初期位置に戻る。同時期の鍵盤がらみの特許で,押し込み時の力-変位図を描いたものは他にもある(例えばUS 3,941,953)。しかしヒステリシスに言及したものは見当たらない。クリック感の本質が,力‐変位曲線のヒステリシス現象にあること鮮やかに示したこともまた,この特許の大きな貢献のひとつである。
なお,この図ではピーク時の荷重が70gf(gram-force)に設定されている。日本では最も重い部類に入れられている5576-A01および003が60kgf程度と言われている。最近のものは40gf台だろう。この鍵盤の試作品は,日本人にはよほど固い鍵盤だったろうと推測される。なお,このような鍵盤の力学的解析については,SPARC氏の定量的研究が注目される。各種の鍵盤のヒステリシス現象を実験的に比較検討している研究は,世界では他に類を見ない。1インチ=2.54cmに注意して,ぜひ本図とSPARC氏の測定結果を見比べられたい。
IBM PC鍵盤への採用
上図の座屈ばね機構は,オリジナルのIBM PC,およびPC/AT付属の鍵盤にそのまま採用されている。その後、モデルMなどと称される101鍵盤にも同様な機構が受け継がれた。しかし両者を並べて打ってみると、打鍵感が明らかに違う。この差は、電気接点機構の違いによる*。
上記特許の中には、電気接点に関する記述も見える。
The contacts 5A through 5C in the preferred embodiment constitute plates in a capacitive switching system and it will be understood that the contacts will be covered by a thin layer of dielectric material to create a capacitive action when actuator 4 is in close proximity to any two of the plates 5A thorough 5C.
(US Patent, 4,118,611)好ましい実施例においては、5Aから5Cまでの部材は、容量性スイッチの極板を構成しており、これら極板は薄い誘電体皮膜に覆われているものと想定される。5Aから5Cまでの極板のいずれか二つに可動部4が近接した時点で、容量性のスイッチング動作が行われる。
ここで「capacitive(容量性)」とあるのは、オリジナルのIBM PC鍵盤には、現在一般的な薄膜接点ではなく、静電容量式のスイッチが使われていたことを示している。静電容量式は、キーの押し下げにより電気的導通を必要としない。その意味ではより機械的スイッチに近く、薄膜に直接触れる方式に比べて、打鍵感はより硬質になる傾向がある。PC/AT鍵盤の後、IBMはPC向けに静電容量性の鍵盤を作ることはなかったから、これら初期型の鍵盤の貴重さは際立っている。詳細はこちらを参照されたい。
なお、容量性のセンサー自体はありふれたものであり、キーボードにおける静電容量スイッチについての解説は、東プレのサイトの他、Qwerters Clinicを参照されたい。
*当初筆者はオリジナルのIBM PC鍵盤を単純な機械スイッチだと書いたがそれは誤りで、正しくは上記のように静電容量式である。この事実は2002年12月頃のQwerters Clinic における議論(掲示板参照)によっている。K-OCT氏、K.Tanaka//氏、keybow氏に謝意を表する。また、IBM PCの収集家として名高い横田和隆氏からもさまざまな教示を受けた。謝意を表する。
5576鍵盤への採用
興味深いのは,このような世界の流れとは独立に,日本ではこのIBMの座屈ばね機構が,5576-003およびA01型鍵盤において独特の形で開花したことである。別項で詳しく述べるが,やや荒削りな感のある米国産の座屈ばねスイッチに対し,この日本製スイッチは,その緻密さ・精密さにおいて,座屈ばね機構の歴史の中で特異な地位を占めている。アルプス・スイッチと並んで,世界鍵盤史上の最高傑作であると言ってもよいと筆者は思う。
筆者の調査によれば,5576-003およびA01の座屈ばねスイッチは,日本IBMが,ブラザー工業に作らせたものである。ブラザー工業の高い技術力に敬意を払い,私はこれをブラザー・スイッチと呼ぶことを提唱したい。ブラザー工業はミシンの製造元として有名であるが(筆者の実家にもブラザーのミシンと編み機があった),タイプライターの有力なメーカーでもあったことは案外知られていない。
5576-001および002のアルプス電気(板ばねスイッチ)からでも、IBMのレキシントンにあったキーボードの開発製造部隊(オリジナルの座屈ばねスイッチ)からでもなく、ブラザー工業からの調達になった経緯は、おおよそ以下のようなものらしい。5576-003およびA01型鍵盤が出されたのは、DOS/Vによる天下統一の前、日本語の標準配列(5576-A01の配列のことである)すらまだ固まっていない頃である。現代と異なり、言語の違いは設計仕様そのものの違いを意味する。それで、米国と同じ鍵盤を使うという発想は当時は必ずしもない。一方、5576-001および002で使われたアルプス電気の板ばねスイッチは、極めて優秀な製品であったが、コストがやや高い。そこで、日本独自の仕様を要求でき、なおかつ、コスト的にも有利な供給先を探す必要があった。ブラザー工業は定評あるスイッチメーカーであったし、米IBMとクロスライセンス契約を結ぶことができたので、これらの条件を満足できたということである。
なお、杜氏TED氏のご教示によれば、ブラザースイッチが初めてIBMの製品に乗るのは5576鍵盤からさらに遡り、1986年、RT/PCという32ビットRISCチップを採用したUNIXワークステーションからだそうである。大阪大学の齋藤明紀氏のページ(リンク切れ)に、その鍵盤の写真がある。外観は1390131とよく似ている。角ロゴの美しいフォルムである。これが、A01鍵盤のあのタッチと同じかどうかはよくわからないが、いつか触ってみたいものである。
5576-003の座屈ばね機構の完成度から考えて,日本IBMの技術者とブラザー工業の技術者との間に,その開発過程において粘り強い改良の試みがあったに違いない。座屈ばね機構は,アメリカ発の画期的発明であるが,それを最高度の水準に完成させた日本人技術者の寄与は記憶されるべきであると思う。
*この節の執筆に当たっては,日本IBMの米持健信氏、および杜氏TED氏に親切なご教示を得ました。ここに名前を掲げて両氏に感謝の意を表します。
(2001年8月)
座屈ばね機構の基本特許
タイプライターという機械に対する欧米人の思い入れは,日本人であるわれわれの想像をはるかに越えたものがある。1970年代,米国での鍵盤の構造改良の問題意識のひとつは,タイプライターといかに似た手触りを実現するか,というところにあった。1973年にテキサス・インスツルメンツ社が提出した特許から引用してみよう(下線は引用者)。
It has been a practice for many years … to provide keys similar to typewriter keys which have significant travel during actuation of the switch and even overtravel after actuation. …This feature has long since become a required characteristic of such keyboards since operators have become accustomed to it.
(“KEYBOARD PUSHBUTTON SWITCH”, US Patent, 3,842,229 )
要するに,使い手がタイプライターに慣れ親しんできているので,それに似た打鍵感を実現するのが重要な問題なのだ,という内容である。押し込み量と「押し抜き感」(overtravel)が重要な要素として挙げられている。鍵盤がらみの特許ではしばしばこのような表現が出てくる。日本人であるわれわれがIBM鍵盤を語るときはこの点に留意することが必要である。タイプライターは相当深い押し込み量を持ち,しかもうるさい。日本IBMが1980年代に出した5576系鍵盤はいずれも米国の標準機enhanced 101とは似ていない。下に触れるようにそれは、日本語という高い障壁のゆえであったが、もうひとつ、打鍵感の好みという因子も見逃せない。実際、5576-C01は、スイッチ構造自体はenhanced 101と同じ座屈ばね式なのだが、ばねは別物で、柔らかいものが使われている。タイプライターを基準として鍵盤を語れるかどうかの差は、それほど小さいものではないと思う。
上に引用した特許で提案されているのは以下のようなプランジャー式の機械接点機構である。20と18がアヒルのような形をした金具でつながれたら導通する。なかなか凝ったつくりであるが,導通のためには底までキーを押し込むことが必要であり,打鍵感がよいとは思えない。ただ,後のアルプス・スイッチのように板ばねとつるまきばねの共同作業でスイッチング動作をする点と,つるまきばねが弓なる自由度があるという点で注目に値する。
その翌年,1974年には,Oak Industriesという会社から下図のような機構が提案されている。書き出しには,「電気接点の間の導通経路の一部としてぐにゃっと曲がった(buckled)つるまきばねを利用したスイッチ」云々,とある。これは座屈ばねをスイッチ機構に取り入れた最初のものと思われる。図のようにばねは軸を中心にした旋回運動(pivotal movement)をする。図をよく見ると,この座屈ばね以外にもうひとつばねがあり,それが基本的にキーの動きを律していることがわかる。
スイッチのON-OFFが操作者に実感できるようにするという目的意識の下,“Buckled spring switch with latching pushbutton”と題された特許が,さらにその翌年に,やはりOak社から提出されている(US 3,979,571)。「ラッチ」というのは,カチッとはまる留め金を指す言葉である。ばねの動作はほとんど同じで,ばねを入れる筒の形状についての改良である。
これらを踏まえて1977年8月30日にIBMのRichard Hunter Harris氏により提出されたのが,“Buckling spring torsional snap actuator”と題された特許である(US 4,118,611)。図を以下に再掲する。上の図と比較すると構造上の単純さは一目瞭然である。単一のばねが,押し込み時の反発感とクリック感の二つの機能を担っている。上の特許では,ばねの座屈はむしろ電気的接触に使われていたが,こちらではクリック感を演出するのに使われている。つまり,ばねがへこっと折れ曲がる時に,指先は「スイッチが入ったな」と感じることができるのである。これにより,本稿の冒頭で引用した「押し抜け感」とでも言うべきタイプライターの動作をよく模擬することができる。さらに,この機構では,電気接点部分は,ばね機構と構造上分離している。この段階ではまだ機械式接点に分類されるが,後の薄膜接点式への応用も容易に推測できる。素人目にもこれは画期的な構造である。米国特許番号4118611。これこそまさに,IBMの座屈ばね機構の基本特許である。
さらにこの特許がすばらしいのは,そのクリック感の由来を,力学的に議論していることである。これも下に引用しよう。初期位置1Aからキーを押し込んでゆくと,1Cでばねの座屈のためカクッと力が減る。そこで電気的に導通する。1Dの行程は,「押し抜き感」を演出する部分である。底まで行ってから静かに手を離すと,滑らかな手触りを持ちつつ初期位置に戻る。同時期の鍵盤がらみの特許で,押し込み時の力-変位図を描いたものは他にもある(例えばUS 3,941,953)。しかしヒステリシスに言及したものは見当たらない。クリック感の本質が,力‐変位曲線のヒステリシス現象にあること鮮やかに示したこともまた,この特許の大きな貢献のひとつである。
なお,この図ではピーク時の荷重が70gf(gram-force)に設定されている。日本では最も重い部類に入れられている5576-A01および003が60kgf程度と言われている。最近のものは40gf台だろう。この鍵盤の試作品は,日本人にはよほど固い鍵盤だったろうと推測される。なお,このような鍵盤の力学的解析については,SPARC氏の定量的研究が注目される。各種の鍵盤のヒステリシス現象を実験的に比較検討している研究は,世界では他に類を見ない。1インチ=2.54cmに注意して,ぜひ本図とSPARC氏の測定結果を見比べられたい。
IBM PC鍵盤への採用
上図の座屈ばね機構は,オリジナルのIBM PC,およびPC/AT付属の鍵盤にそのまま採用されている。その後、モデルMなどと称される101鍵盤にも同様な機構が受け継がれた。しかし両者を並べて打ってみると、打鍵感が明らかに違う。この差は、電気接点機構の違いによる*。
上記特許の中には、電気接点に関する記述も見える。
The contacts 5A through 5C in the preferred embodiment constitute plates in a capacitive switching system and it will be understood that the contacts will be covered by a thin layer of dielectric material to create a capacitive action when actuator 4 is in close proximity to any two of the plates 5A thorough 5C.
(US Patent, 4,118,611)好ましい実施例においては、5Aから5Cまでの部材は、容量性スイッチの極板を構成しており、これら極板は薄い誘電体皮膜に覆われているものと想定される。5Aから5Cまでの極板のいずれか二つに可動部4が近接した時点で、容量性のスイッチング動作が行われる。
ここで「capacitive(容量性)」とあるのは、オリジナルのIBM PC鍵盤には、現在一般的な薄膜接点ではなく、静電容量式のスイッチが使われていたことを示している。静電容量式は、キーの押し下げにより電気的導通を必要としない。その意味ではより機械的スイッチに近く、薄膜に直接触れる方式に比べて、打鍵感はより硬質になる傾向がある。PC/AT鍵盤の後、IBMはPC向けに静電容量性の鍵盤を作ることはなかったから、これら初期型の鍵盤の貴重さは際立っている。詳細はこちらを参照されたい。
なお、容量性のセンサー自体はありふれたものであり、キーボードにおける静電容量スイッチについての解説は、東プレのサイトの他、Qwerters Clinicを参照されたい。
*当初筆者はオリジナルのIBM PC鍵盤を単純な機械スイッチだと書いたがそれは誤りで、正しくは上記のように静電容量式である。この事実は2002年12月頃のQwerters Clinic における議論(掲示板参照)によっている。K-OCT氏、K.Tanaka//氏、keybow氏に謝意を表する。また、IBM PCの収集家として名高い横田和隆氏からもさまざまな教示を受けた。謝意を表する。
5576鍵盤への採用
興味深いのは,このような世界の流れとは独立に,日本ではこのIBMの座屈ばね機構が,5576-003およびA01型鍵盤において独特の形で開花したことである。別項で詳しく述べるが,やや荒削りな感のある米国産の座屈ばねスイッチに対し,この日本製スイッチは,その緻密さ・精密さにおいて,座屈ばね機構の歴史の中で特異な地位を占めている。アルプス・スイッチと並んで,世界鍵盤史上の最高傑作であると言ってもよいと筆者は思う。
筆者の調査によれば,5576-003およびA01の座屈ばねスイッチは,日本IBMが,ブラザー工業に作らせたものである。ブラザー工業の高い技術力に敬意を払い,私はこれをブラザー・スイッチと呼ぶことを提唱したい。ブラザー工業はミシンの製造元として有名であるが(筆者の実家にもブラザーのミシンと編み機があった),タイプライターの有力なメーカーでもあったことは案外知られていない。
5576-001および002のアルプス電気(板ばねスイッチ)からでも、IBMのレキシントンにあったキーボードの開発製造部隊(オリジナルの座屈ばねスイッチ)からでもなく、ブラザー工業からの調達になった経緯は、おおよそ以下のようなものらしい。5576-003およびA01型鍵盤が出されたのは、DOS/Vによる天下統一の前、日本語の標準配列(5576-A01の配列のことである)すらまだ固まっていない頃である。現代と異なり、言語の違いは設計仕様そのものの違いを意味する。それで、米国と同じ鍵盤を使うという発想は当時は必ずしもない。一方、5576-001および002で使われたアルプス電気の板ばねスイッチは、極めて優秀な製品であったが、コストがやや高い。そこで、日本独自の仕様を要求でき、なおかつ、コスト的にも有利な供給先を探す必要があった。ブラザー工業は定評あるスイッチメーカーであったし、米IBMとクロスライセンス契約を結ぶことができたので、これらの条件を満足できたということである。
なお、杜氏TED氏のご教示によれば、ブラザースイッチが初めてIBMの製品に乗るのは5576鍵盤からさらに遡り、1986年、RT/PCという32ビットRISCチップを採用したUNIXワークステーションからだそうである。大阪大学の齋藤明紀氏のページ(リンク切れ)に、その鍵盤の写真がある。外観は1390131とよく似ている。角ロゴの美しいフォルムである。これが、A01鍵盤のあのタッチと同じかどうかはよくわからないが、いつか触ってみたいものである。
5576-003の座屈ばね機構の完成度から考えて,日本IBMの技術者とブラザー工業の技術者との間に,その開発過程において粘り強い改良の試みがあったに違いない。座屈ばね機構は,アメリカ発の画期的発明であるが,それを最高度の水準に完成させた日本人技術者の寄与は記憶されるべきであると思う。
*この節の執筆に当たっては,日本IBMの米持健信氏、および杜氏TED氏に親切なご教示を得ました。ここに名前を掲げて両氏に感謝の意を表します。
(2001年8月)