Saturday, April 20
Shadow

PC/AT

6450200

Date of MFG 12-08-1985
Made in United Kingdom

大衆商品であること、すなわち「安物」であることを運命付けられたPC製品の中では、伝説という名にふさわしい製品はほとんどありません。そういうPC鍵盤の中で、「伝説」という形容にふさわしいものを挙げるとすれば、このIBM Personal Computer ATの鍵盤をおいて他にありません。本機は鍵盤趣味者の憧れの存在として、現在でも非常な高値で取引されています。

IBM PC/ATは現在のいわゆる「PC/AT互換機」の元祖となったモデルであり、そのアーキテクチャの多くは現代のPCでも共通に使われています。スキャンコードの相違からPC/AT以前のIBM PC鍵盤(PC/XT鍵盤も同じ)は現在のWindowsパソコンにつないでも動作しないので,現在のいわゆる「Windowsパソコン」で動作する最古の鍵盤と言えます。実際この文章の一部は(キー配列の相違に戸惑いつつも)本機を使って書かれたものです。

全体の印象はIBM PC鍵盤とよく似ていますが、キー配列などにおいて相違が存在します。下にIBM PC鍵盤の83-keyと比べてみた写真を示します(上が本機)。本機PC/ATの方が、10キーが分離されている点、リターンキーがはっきりした点などに、現代っぽさを感じることができます。また、PC/AT鍵盤にはLEDが装備されています。このLEDの相違はまさに、101鍵盤界の王1390131と、その陰で歴史の脇役に甘んぜざるを得なかった1390120との悲劇的な対比の象徴であり、XTとATの新旧二つのアーキテクチャの相克を示すものです。このあたりの話は、PC/XT/AT的話題の「101鍵盤の発表」をご参照ください。

(上)PC/AT鍵盤,(下)IBM PC鍵盤
(上)PC/AT鍵盤,(下)IBM PC鍵盤

本機を使用していてまず気づくのは、JとFの上には現代の鍵盤にあるような突起がなく,手の定位置がわかりにくいことです。Ctrlキーの位置も違います。現代のいわゆるUNIX配列のキーボードと同様、CtrlはAの隣にあります。独立した矢印キーは存在せず,10キーと併用する形になっています。上述の通りLEDはすでに装備されていますが,配列が後継機とは異なり,左からCaps Lock,Num Lock,Scroll Lockとなっています。言うまでもなく,8キーの上のNum Lockキーを押すと10キーで数字入力可能になり,それ以外の場合は矢印キーとして作動します。日本語変換をしているとEscキーをよく使いますが、本機ではEscキーは10キーの位置(7キーの上=リターンキーの右上)にあり、非常に違和感を感じます。

配列において他にenhanced 101と異なる点を羅列すると,

  • 左側にファンクションキーがまとめられており,その数が10個である。
  • 10キー部にenterと/キーがない。
  • 101鍵盤の左Ctrlの位置にAlt,右Ctrlの位置にCapsLockがある。
  • 101鍵盤のAltの位置に何もない(スペースバーが長い)

などが挙げられます。各々写真を見つつご確認ください。

Ctrlの隣にAが来ている

改行キーは恐ろしく大きく,打ちやすいです。101鍵盤が横長のリターンキーを採用したので,日本語鍵盤やイギリス配列の鍵盤で見られる逆L字型のリターンキーは何か邪道のように言われることも多いのですが,歴史的にみればもともとリターンキーは横長だったわけではないのです。IBM PC鍵盤のところで書いたように、IBM PC鍵盤からPC/AT鍵盤へのリターンキー周りのキー形状変化は、IBM PC鍵盤に殺到した苦情への対応として行われたと言われています。

筐体はプラスチック製ですが,全体として極めて重く,後継の1391401等の101鍵盤よりも高級感があります。製品発表レターによれば、質量はほぼ2.8kgで、1390131の2割5分増しとなっています。横幅は1391401よりも2.5cm程度短く,体積もその分だけ小さいにもかかわらず,それよりも3~4割重いのではないでしょうか。上下にゆすってもガワのぐらつきは一切感じられず,質感に富みます。この重量を支えるためか,爪足も大変立派なものが取り付けられています。下の写真で言うと,側面に飛び出た灰色のつまみを押し回すことで爪足を出したりしまったりします。

すでに湾曲配位が採用されており,1391401系の鍵盤に慣れた指には(Ctrl等の特殊キーを除いて)運指に何らの違和感を感ずることなくタッチタイプが可能です。ただ,スペースバーがある位置から鍵盤のヘリまでの距離が約3cmあり,IBM PC鍵盤よりも1cmほど長いため,手のひらが鍵盤前面に触れてやや邪魔に感じます。この難のある設計は,次モデル1390131においてはあっさり改善され,ほぼIBM PC鍵盤の原設計に戻されました。

PC/AT鍵盤
PC/AT鍵盤

側面から見ると本体はやや扁平な形をしています。ただ,爪足が長いため,爪足を立てた状態で比べるとキートップは1391401とほぼ同じ位置に来ます。1390131や1391401のI型と同様,大型キーにはコ字状の固定具が取り付けられています。この固定具はIBM PC鍵盤には見られなかったもので,本機がその先駆けとなったと考えられます。この機構は1391401のII型以降廃止され,1990年代においてはまったく姿を消します。

キースイッチはIBM PC鍵盤と同様の構造をなし、機械的にはIBMの誇る座屈ばね式が採用されています。後の101鍵盤では,そのやわらかい打鍵感から知れるように、ゴム状素材によるダンパーを備えた薄膜接点が採用されていますが,本機はオリジナルの座屈ばね機構の特許に忠実な構造となっており、座屈ばねの取り付けられた硬質プラスチック製の足(部材4)が、樹脂基板上にプリントされた電極(5Aおよびi5C)を叩く仕掛けになっています。打鍵感は硬質かつ上質で、筐体全体の頑丈さとあいまって、美しい打鍵音を響かせます。

ところで、ASCII25.comのThinkPad学という記事に、下記のような記述があります。

特にメンブレンシートは後に大ヒットとなるIBM PCに採用され,今日ではIBMに限らず,ほとんどのメーカーのキーボードに採用されている技術である。

ここで言う「メンブレンシート」が、現代的な薄膜接点フィルムをさすものだとしたら、この記述は事実ではありません。私も2002年12月になって知ったことなのですが、本機のスイッチは静電容量式であり、後の101鍵盤とは根本的に異なります。このことは、横田和隆氏の指摘を受け、Qwerters Clinic BBSに集うK-OCT氏、K.Tanaka//氏、keybow氏の議論を参照して知りました。各位に謝意を表します。内部構造の分解写真は、PC/AT/XT的話題の「静電容量スイッチの内部構造」のところで紹介しますので、詳しくはそちらをご覧ください。

まさに別格という言葉がふさわしい鍵盤です。当時の最新テクノロジーであった座屈ばね機構と、高級スイッチとみなされていたであろう静電容量式スイッチ機構を備え、PCの大衆性をむしろ嘲笑するかのような上質な部材をふんだんに使って出来上がっているPC/AT鍵盤。その惚れ惚れするような質感は、ほとんど一個のThinkPadにも匹敵し、101鍵盤の王1390131ですら沈黙せざるを得ません。現代のPCでも実際に使えるという実用性とあいまって、いつまでも鍵盤趣味者の憧れの的であることでしょう。

打鍵音はenhanced 101系の鍵盤とは異なります。非常に説明しにくいのですが,キーによっては101鍵盤に比べてキートップに近い高さで何かが弾んでいるような音がします。極板のばねの残響音が独特なので,音を聞けばすぐに区別できると思います。これは,座屈ばねが座屈状態から復帰する時に,座屈ばねの足のプラスチック板が底の樹脂基板を叩く音です。特許の図で言えば,足板4が,5Bあたりを叩く音です。

キーを押し込んで離した時,指の感覚を研ぎ澄ませていると,キーによっては,座屈ばねが戻る時にばねに生ずる振動を指に感じることができます。1391401などでは何かにその振動が吸収されているのですが,本機ではそれが生のまま指と耳に届く感覚があります。キーを打ち抜いたときの感覚はenhanced 101よりも硬質で,何かにカツッと当たっている感触があります。キーを押して離した時の音に,座屈ばねの残響以外の音が混じり,それが機械的な極板の接触を示唆しています。

インターネット上で日本語で読める解説はすべて,PC/ATに付属された鍵盤としては本機は短命であったとしています。元麻布春男さんの名文から引用します。

次に登場した84キーキーボードは、PC/ATのごく初期にのみ使われた、という点で短命なキーボードだった。84キーキーボードの特徴は、CtrlキーをAキーの左に維持しつつ、EnterキーやShiftキーを大型化し、打ちやすくしたことだろう。特に逆L字形の大型Enterキーは、評判が良かった。最大の難点は、Escキーが1の左隣から、10キーパッド(今のNumLockキーの位置)に移ってしまったことで、みんな首をひねったものだ。個人的には、この84キーキーボードが、自分で所有した最初のIBM純正キーボードだったので特に印象深い。やたらと重たいキーボード本体、凶悪なまでに太くて黒いカールコード、バッチンバッチンとうるさいまでにスプリングの効いたメカニカルキースイッチ(ただしキータッチはすこぶる良かった)など、今でも良く覚えている。(元麻布春男の週刊PCホットライン,第102回)

上記「バッチンバッチンとうるさいまでにスプリングの効いた」という表現は,enhanced 101以降のややこもった音と比較すると確かにうなづけるものがあります。IBM PCに添付された83-key鍵盤から本機を経てenhanced 101にいたる配列の変遷を見ていると,英語鍵盤にも標準配列を争う戦国時代があったことがしのばれ,興味深いです。この辺の事情は、PC/XT/AT的話題で多少書きましたのでご参照ください。

日本語のWebサイトでは2001年8月現在,私の知る限りで2箇所のサイトで本機の写真が公開されています。WareHouse pageでの紹介は,文章の流麗さといい,論評の確かさといい,鍵盤にまつわるエッセイのうちで最上の部類に入ると思います。yav氏主宰の橘心女学院という不思議な空間にも紹介ページがあります。強い愛情とともに使ってもらって,実に幸せな鍵盤だと思います。

1999年12月にYahoo Auctionsで買ったという方の日記によれば最低落札価格が2万円だったようです。2001年12月16日に終了したオークションでは7万円というとんでもない値段がつきました。日本ではすでにマニア価格ではありますが、鍵盤界の最高峰としての本機を求める人は、これからも数多く存在しつづけることでしょう。