Saturday, October 23
Shadow

葬送 Stingray

スティングレイという名前の高級スポーツカーがあるそうだ。私はその車を見たことはないが、「エイ」という語義からするならば、海の底を泳ぐエイのように滑らかに進む流線型の物体を想像することができる。スティングレイ・デザイン。IBMはThinkPad s30をこう呼ぶ。彼らの言葉は実に魅力的だ――キーワードは「美」、「美」を兼ね備えなければ、PCも道具として生き残れない。私の知る限り、「美」をテーマにしたThinkPadはs30以外にない。

ThinkPad s30 概観。ピアノ・ブラックと呼ばれた光沢が美しい。
ThinkPad s30 概観。ピアノ・ブラックと呼ばれた光沢仕上げ。

ThinkPad s30が発売されたのは2001年の5月のことだ。発売前から、バタフライ復活かという憶測が一部で飛び交っていた。実物を眺めて、ThinkPadファンの多くは確信したことだろう。s30は歴史に残るモデルになるだろうと。

(左)ThinkPad s30、(右)ThinkPad 701C
(左)ThinkPad s30、(右)ThinkPad 701C

ThinkPad s30のキーボードは分割収納式ではないが、B5ノートにフルサイズキーボードを搭載することを目指したバタフライ(ThinkPad701C)の思想の延長線上にあると言ってよい。両者を並べて見ると、TabキーやEscキーを除いてキーピッチはほぼ同じで、B5サイズのサブノートの多くと比較して、デスクトップ機からの移行に違和感を感じない。

(左)ThinkPad s30、(右)ThinkPad 701C
(左)ThinkPad s30、(右)チャンドラ2ことThinkPad 235

同様の比較を、同じくB5サブノートのThinkPad 235と行うと、s30のキーボードの打ちやすさは歴然とする。235は、A4標準サイズのThinkPadのキーボードをそのまま縮小したようなキーボードを持っていて、キーピッチはわずか15mm。s30よりも3.5mm短い。キーボードを含めた筐体の弱さはよく知られたところである。もとよりSVGA(800×600画素)画面であり、これでは文字を打ち込む気にはなれない。バタフライのような、高価かつ冗長なギミックを持たず、B5サイズと、ISOの基準によるフルサイズキーボードを両立させたこのs30は、鍵盤趣味者にとっては携帯PCについての理想の解答と言ってよい。

ピアノの光沢にIBMロゴが美しい
ピアノの光沢にIBMロゴが美しい

カタログによればs30の質量は1.45kgで、同時期の他社のB5サブノートに比べて重い。しかしその分全体に堅牢さが感じられ質感は高い。「ピアノの光沢」も高級感をかもし出す。s30のThinkPadは、「大人の翼」以来久しぶりに、オフィスレディーが憧れるブランドイメージを残した。

s30の日本語キーボード全体
s30の日本語キーボード全体

キーボードへのこだわりが、あの贅をこらしたIBM PC鍵盤以来の、いや、セレクトリック・タイプライター以来のIBMの王道だとするならば、フルサイズキーボードを誇らしげに備えたs30は、21世紀に舞い降りた美しい王子―――であるはずであった。しかし、ThinkPad 600についての物語でも書いたように、s30のキーボードは頂点を極めたThinkPad 600のキーボードと似ていない。キーボードの基板は軟弱で、それを固定する機構にも芸がない。筐体の質感にふさわしい高質な打鍵感を期待してs30に初めて触った私は、一瞬指を疑った。トラックポイント周りの2-3のキーを除き、打つたびにキーボード基板がたわみ、それに伴い不快な雑音を発する。まさかとは思ったが、英語キーボードに換装してみても打鍵感は変わらない。s30のスイッチ自体はまるで普通の、その辺にある平均的なキーボードであった。わずかに7段のキー配列と、適度なストロークに正統を感じることができるのみである。それだけで十分だと感じるユーザも多かろう。しかし最高の感触を一度味わった指には、それではまったく不満足だった。

s30の日本語キーボードの裏面
s30の日本語キーボードの裏面

悲劇的なことに、この美貌の王子が誕生した頃、王家はすでに斜陽であった。s30は、結果としてi シリーズの最終モデルとなるのだが、i シリーズの最新機種として2001年に発売された。異例の日本先行発売だった。1990年代後半からIBMは製品のブランドを世界的に統合する動きを見せ、日本独自モデルの開発が難しくなっていた。米国ではs30やリブレットのようなサブノートの人気はあまりなく、むしろB5ファイルサイズか、そうでなければPDAを買うというのが主な消費者の嗜好である。サブノートの主戦場は東アジア地区と考えられていた。その上、PC製品のコモディティ化は1990年代後半になってすでに誰の目にも明らかだった。Aptivaの発売停止が発表されたのがまさにs30発売の年、2001年である。IBMは(とりわけ一般消費者向けの)ハードウェアビジネスという斜陽の王家に見切りをつけ、サービスビジネスに明確に軸足を移したのだ。

s30のスイッチ機構。ゴム椀の素材はThinkPad 600に比べて質が劣る
s30のスイッチ機構。ゴム椀の素材はThinkPad 600に比べて質が劣る

s30は、i シリーズの廃止の後もsシリーズとしてかろうじて生き延びたが、2002年3月、ついに生産中止の宣告を受けた。s30は少なくとも日本市場で非常に好評だったため、多くのユーザに意外な感じを与えたものと思われる。日本IBMの担当者の弁も苦しそうである。

s30の悲劇は、ひとつの時代の終わりを示唆している
s30の悲劇は、ひとつの時代の終わりを示唆している

この美貌のマシンに、最高の鍵盤を纏わせてあげられなかったことは実に残念であった。デスクトップ用キーボードが取るに足らぬ代物になってしまった今、栄光のIBM鍵盤史の流れのほとんど唯一の継承者として、私はs30の発売を待ちわびていた。手にした実物は必ずしも期待をかなえなかったが、それでも私は満足だった。スティングレイ・デザインに、かつてIBMが持っていた鍵盤への矜持を感じることができたから。時代の波に翻弄され、永遠に幽閉されてしまった美貌の王子。そのなきがらは、静かに下りた緞帳に重なる網膜の残像として、私の中では永遠にその姿を保ち続けるだろう。