1983年に日本IBMが発売したマルチステーション5550という事務用コンピュータに付属された鍵盤です。1983年という時期は,アメリカでPC/ATが発売される以前ですので,IBM PCのオリジナル鍵盤と同じくスキャンコードが現代の標準とは異なり,AT互換PCでは使うことができません。
後の5576系と同様に,アルプス製のスイッチが使われていますが,クリック音がしないタイプです。このいわゆる「ノンクリックタイプ」の機械式スイッチは,キーボードマニアの中ではDellの古いPCに付属した鍵盤と結びつけて思い出されることが多いようです。名機と知られるDell SK-D100Mについての解説が,SHOP Uのサイトにありますのでぜひご覧下さい。
日本IBMから出された機械式スイッチの鍵盤の中には,おそらく本家本元の米IBMのキーボードがガシャガシャ音が鳴る座屈ばね鍵盤であったためだと思われますが,このような消音型の例はほとんどありません。本機のようなオフコン付属の鍵盤以外,一般向けのPCでは,私の知る限りまったくありません。
スイッチ機構はまるで異なるのですが,一見してわかるように,全体の形状はIBM PCに付属された鍵盤とよく似ています。現代のキーボードに見られるJとFの上にある突起がないところなど,微妙な点にも共通点があります。ただ,ロゴを比較すると明らかなように,本機のほうが全体的に軽く,プラスチックが多用されており,質感に欠けるという印象です。
とは言え,現代の軽量キーボードに比較して,筐体のつくりは緻密という言葉がふさわしく,後の5576系に通じる伝統を感じます。本機のノンクリックタイプのスイッチは,5576-A01に比べて随分軽く,しかも筐体が精密に作られているために,力強く叩いても底でグニャっと筐体がたわむ感じがせず,机にしっかりと張り付いて安定しています。個人的には,打ち込んだときに指に硬質な反跳が感じられる鍵盤が好みなので,本機は私にとってかなり好ましい部類に入ります。ノンクリック・メカニカル。欲しくなりました。
ロゴは一応「角ロゴ」ではありますが,随分手抜きをしている印象です。1390131まで見られた堂々たる角ロゴは,ロゴと言うよりエンブレム(emblem=紋章)とでもいうべき威風堂々としたつくりでしたが,本機のロゴは貧相そのものです。そういえば,後に日本で出されたIBM鍵盤を見直してみても,ロゴについてはこれをしのぐようなものを持っている例はありません。鍵盤ばかりでなく,たとえば身近の自動車を見渡してみても,エンブレムとそれにまつわる質感の相違はあります。日本製品は欧米の一流どころに一歩譲る印象です。ただ日本でも,古い商店などでは屋号を書いた漆塗りの立派な板が店先に掲げてありますから,日本人が伝統的にエンブレムを軽視するというわけでもなさそうです。「銘」という言葉もあります。
おそらくIBM PCは,The PCという傲慢な名前が示すように,「あの」IBMが作ったPCなのだ,ということを一般消費者に知らしめる必要があり,あのような立派なロゴを作ったのだと思います。日本ではIBMは,一般には無名の新参メーカに過ぎなかったわけですので,ブランド戦略よりも親しみやすさを前面に出す必要があったのでしょう。それを考えると,このロゴの素気なさも,マルチステーション5550のコマーシャルに渥美清が採用されたことも(前史2参照),なんとなく理解できます。
形状的な特徴としては,裏面に後の5576-001に通じるスピーカー穴があることと,背面にボリューム調整ダイヤルのようなものがあることが挙げられます。ケーブルは5576-001とIBM PC鍵盤の中間のような印象で,出っ張りが邪魔にならないように設計された固定式となっています。
爪足なども形はそっくりなのですが,爪足を実際に出し入れする感覚は,圧倒的に本機のほうがすぐれています。細かく見ていくと本機の方がオリジナルよりも機構的に改良がなされていることがわかります。写真で見るとおり,本機では爪足は斜面に沿って立ち上がるように作られていますが,オリジナルでは矩形の出っ張りがあるのみです。爪足を立てるときには,一度取っ手を強く押し込まなければなりません。
マルチステーション5550についての極めて質の高い説明がこちらにあります。また、ThinkPad資料館のPS/55資料館にも情報があり、その管理人の方が1986年に会社で購入された時の価格が153万円だったそうです。今のデスクトップPCの約10倍です。単純計算では,キーボードにかけられるお金も10倍なわけで,前史2で挙げた5576鍵盤の価格表が,平均的な現代のキーボードの値段のおおよそ10倍くらいになっていることもある程度納得できますね。