Saturday, December 21
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1390120

1390120

Part No. 1390131
Date 03DEC86
Plt No F2 Model M

IBM英語鍵盤で「角ロゴ」と言えば1390131が代表的なものですが,その裏でまた「角ロゴ」と呼ばれている鍵盤があります。IBM製品番号1390120。英語101鍵盤の神代の王として君臨する1390131の象徴,光り輝く矩形の紋章を備えながら,その特殊な風貌は明らかに華を欠き,表舞台に出ることのないまま歴史から葬られようとしています。本機は1390131とまったく同時期,1986年から1987年というわずかな時間だけ世に出されました。しかし1390131の短命がむしろ希少価値を高めたのに対し,本機はまさにその短命がゆえに,決して王道を歩めぬ哀れな鍵盤との評価を受ける結果となっています。

1390120。PC/XTに添付された関係で、LEDに覆いがある。
1390120。PC/XTに添付された関係で、LEDに覆いがある。

1390131との相違は,ただLED部が存在するかどうかだけです。以下においおい述べていきますが,一見わずかなこの相違は,実はIBM PCととATという二つのPCアーキテクチャの断層を象徴するものであり,そしてそれは,本機と1390131における陰と陽の関係を如実に示すものでもあるのです。

1390120
1390120
1390120
1390131

上部覆いを外してみた写真を上に示します。1390131であるべき位置にLEDが存在していないことがわかります。LEDが省かれるつくりは,日本語鍵盤でもしばしば見られます。たとえば3479-JA1は5576-001と同様の構造を持っていますが,LEDには覆いがつけられています。LEDが省かれた理由としては,鍵盤を接続する本体が,機能としてLEDを必要としなかったと考えるのが自然です。したがって,本機を接続すべき本体は,PC/ATもしくはその基本設計を継承した機械ではなく,別系統の基本設計を持つ計算機であったのだろうと考えられます。3479-JA1の場合はまさにそのとおりで,IBMの大型汎用機用に設計された鍵盤なのでした。

ただ不思議なことに本機は,現代のPC/AT互換機で問題なく動作します。しかも,電気系統をつかさどる電気基板は,1390131と同一です。基板の写真を上に示します。一番大きいチップが,拡大写真のように「1389986」と記された日本製,小さい二つのチップはマレーシア製です。基板には1389989 K26-3と書かれたラベルが貼られています(下の拡大図参照)。これらは私の手元にある1986年11月製の1390131と完全に一致します。

上に示した電気基板の全体写真を見ると,基板の右端に,金メッキ製の端子を4本出した白いソケットが見えます。実際に鋼板基板を載せた状態で撮影した写真(下記)の方がわかりやすいかもしれません。1390131ではここからLEDにつながる黄色い導線がつながっているのですが,本機ではこのソケットが空いたままです。すなわち,本機の電気基板にはLEDを点灯させる能力があるにもかかわらず,あえてLEDを装備していないということになります。

大型汎用機は別にして,一般向けに発売したIBMのPCにおいて,複数の基本設計が並存した時代は確かにありました。FPCUの年表によれば,1985年から1986年にかけて,PC/ATとPC/XTの新モデルが交差的に発売されていることがわかります。IBM PC/AT/XTの収集家であられる横田和隆氏のご指摘に従い、詳細な年表をこちらにまとめておきました。それによれば、PC/AT発売の2年後、1986年にPC/XTの新モデルが投入されていることがわかります。

PC/XTの鍵盤としては,もともとはIBM PC用に開発された83-Keyモデルが使われていました。これにはLEDはありません。また,PC/AT鍵盤とはスキャンコードが異なり,現代のAT互換機では使うことができません。上記の通り、本機が世に出る2年前、すでに80286プロセッサを擁し、16ビットバスを持つ新鋭機PC/ATは存在していました。おそらく、XTに比べ格段に性能を上げたATの上で走るアプリケーションは、独立したカーソルキーなどを備える より多機能な鍵盤を要求していたことでしょう。その一方で、国民的ヒット機となったIBM PCシリーズとの互換性への配慮も必要だったことでしょう。

この状況の中、旧アーキテクチャを持つXT一派はある妥協を決断します。1986年に出荷されたXTのいわゆる後期型(5160-089、-268、-278)ではBIOS ROMが変更され、起動時にどちらの設計の鍵盤でも認識できるようになりました**。 そして、XTおよびAT両派は、独立したカーソルキーを備え、ファンクションキーを増強した鍵盤、今に言うenhanced 101鍵盤を添付したモデルをほぼ同時期に発表します。1986年のことです。これは新しい仕様の鍵盤の誕生を意味すると同時に、IBM PC鍵盤から続く旧設計の終わりをも意味しました。前者の象徴が現在もIBM鍵盤の王として君臨する1390131であり、後者が本機というわけです。
** 横田和隆氏のご教示による。

すなわち本機1390120は,XTアーキテクチャが,次モデルであるPC/ATの路線を取り込んで延命を図った時期の落し子と言えます。上記FPCUの年表によれば,1987年にオリジナルのPC/ATは製造販売が打ち切られました。にまとめたとおり、それと前後してXTの現役時代も過去のものとなりました。それまでのわずか2年間,本機は,PC/ATと同様のインターフェイスを持つPC/XT後期型用の鍵盤として世に出されたのでした。LEDが装備されていないのは,PC/XT後期型の鍵盤周りの仕様に,モード切り替えをLEDで表示する機能が含まれていなかったからに他なりません。1390131の贅を凝らした基本設計を,スイッチ機構および電気基板に共通に持ちながら,一世代前のアーキテクチャに仕えることを強いられたばかりに,歴史の脇役に甘んじざるを得なかった本機の無念は察するに余りあります。

私の手元にある1390120のひとつは1986年12月製と記されています。ラベルは1391401などと共通のデザインですが、1986年の初期のロットではバーコードのような模様のある特殊なラベルになっています。下に両者の写真を示します。この101鍵盤がエンハンスド(「進化型」とでも訳せる)101鍵盤として初めて発表されたのは、1986年4月2日付のIBM製品発表レター(186-051)ですが、なぜか製造年月日自体はそれよりさらに古く、本機の最も古いロットは1986年1月製のようです。

1986年12月製のラベル
1986年12月製のラベル
1986年1月製のラベル(原田氏の厚意による)
1986年1月製のラベル(原田氏の厚意による)

鋼板基板には,ロットにより多少の違いがあります。PT No.が1386085,EC No.が528537と書かれているのは共通ですが,光沢があるものとつや消しのものの2系統あります。私の手元の2台の1390120について下記に写真を示します。いずれも1986年製です。上のものは光沢があり,MANUFACTURED IN UNITED KINGDOMとの表記がありますが,下はつや消しの鋼板で,ラベルの意匠も違います。同時期に作られた1390131についても複数の鋼板基板が存在することがわかっています。このあたりまで来ると,素人では調査が難しい領域ですので,ぜひIBM関係者の積極的な情報提供を望みます(といってもこれを作った人で日本語を読める人は皆無でしょうが)。

本機の鋼板基板の異種
本機の鋼板基板の異種

スイッチ機構は1390131と完全に同じで,大型キーには安定用金具がつけられています。最近,オークションでこの金具についてマニア的関心を持っている人がいるようなのですが,1391401のII型以降におけるこの金具の廃止は,キーの支持機構の改良――プランジャの「さや」部のはめあい精度を上げぐらつきをなくした――と同時でしたので,それをもって品質低下の証とする考えは必ずしも当たっていません。

写真の通りプラスチック基板の色は黒です。鋼板が湾曲した構造(湾曲配位)である点も後世の101鍵盤と違いがありません。裏にスピーカーの穴がありますが,例によって中は空洞となっています。2002年5月現在で,私はスピーカー入りのIBM英語鍵盤を見たことがありません。鍵盤趣味者の草分けとして名高いのぐ獣氏のサイトには1984年の超初期モデルとしてスピーカー入り鍵盤の存在が指摘されています。1984年といえばPC/ATの発売年であり,極めて珍しいものだと考えられます。

本機には,ATコネクタを持つ黒く太いケーブルが付属したようです。長くて太く,実用性も耐久性も十分です。ケーブルと鍵盤とのコネクタは,後の101鍵盤と同じ規格です。さすがにPC側はATコネクタですが,大きな電気屋へ行けば数百円でPS/2変換コネクタが手に入るので,現代のPCでも十分に使えます。

IBM英語鍵盤における神代の王1390131の陰で隠遁生活を強いられた感のある1390120。生まれながらにして,落日のPC/XTアーキテクチャと政略結婚することを運命付けられた悲劇の王女です。しかし鍵盤趣味者的観点では,XT対ATの争いがもたらした過渡期の状況を示すものとして,極めて興味深い存在であるともいます。先に私は,IBM5576系日本語鍵盤を指して以下のように書きました。

日本では,PCにおける日本語の呪縛をDOS/Vが克服する過程で,宝箱のように多彩な名機が生み出された。…(中略)…IBM 5576系鍵盤は,日本語配列の確立過程と,PCの大衆化に伴う品質劣化が交差するところで,凝縮された歴史を語っている。

1980年代前半に,本機や1390131,あるいはまたIBM PC鍵盤やPC/AT鍵盤が織りなした絢爛な展開を見ていると,英語鍵盤については,タイプライターの桎梏とアーキテクチャの呪縛とを振り切る過程で多彩な名機が生み出された,と表現できそうです。品質劣化の黄昏がやって来る以前,神代の美しい物語でした。